右手を上げてみる。そこには何も無かった。
では、左手には何かがあるんだろうか?
左手を上げてみる。そこには何かがあった。
その何かは、とても暖かくて。きっと今の俺には無い物なんだろうと思う。
だからそれは、きっと誰かからもらった贈り物。
大切な大切な、たった一つの温もりで・・・・・・。
俺はそれを大事にしていこうと、生涯誓ったんだ。
でも。
時々不安になるんだ。
俺には、それしかないんじゃないか ってね
今回は、俺の右手に似合う物を探す物語
〜♪
部屋の中には鍵盤楽器の音が響いている。
俺の両手が生む、音の螺旋。優しく激しく、強く弱く。そして出来るだけ、感情を載せていく。
クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ。一般的にピアノと言われる楽器である。
初めてピアノを弾いたのは何時だったろうか。もう覚えてはいないくらいに、小さな頃だったと思う。
その時にも確か、隣には彼女がいた。彼女とは、従姉のハルカ姉さん。
俺の師であり、家族であり、世界的にも有名なピアニストだ。ワケあって、同じ家に住んでいる。
そんな彼女は今も眼を閉じたまま、俺の演奏を満足そうに聴いている。
音に合わせて軽く身体が揺れている事に、彼女自身は気付いているんだろうか。
やがて演奏が終わると、ハル姉は何度も頷いた。
「うんうん、良いと思うよ。聴いてて気持ちいいかな」
「・・・そりゃどうも」
彼女の評価はいつも、褒め言葉から始まる。ちなみに酷すぎる場合、褒め言葉さえ出ないこともある。
普段は優しい人なのだが、音楽が間に入ると素直な感想しか言わなくなる人だ。
「ただここ。指が上手く動いてないのかな?
時々変な所を弾いてる事があって・・・・・・」
顔が近い。同じ楽譜を覗きこんでるわけだから、しょうがないんだけど……。
自分の顔が熱くなっているのがわかった。
「ん?」
「あ、いや、なんでもない」
いつの間にかハル姉の顔を見つめていたのか、眼が合うと彼女は首を傾げた。
「ちゃんと聞いてた?」
彼女は少し怒ったように、眉をひそめる。思わず眼を逸らした。
「・・・ごめんなさい」
「もう一度やったら、本気で怒るから。それじゃ、続きね」
毎朝……とはいかないものの、ハル姉が暇な朝にはこうして教えてもらっている。
こんな俺でも、将来の夢はプロのピアニストで。いずれはハル姉のようになりたいと思ってる。
「セージ、まだー?」
ハル姉は行儀悪く机の上に寝そべると、足をバタバタさせていた。俺が作る朝食を待っているらしい。
「まだ。・・・っていうか朝飯くらい自分で作ってくれよ」
彼女は破滅的に料理が下手くそだ。他は出来るくせに、唯一の欠点と言っても良い。
でもだからといって、学生の忙しい朝くらいは勘弁してもらいたい。
「インスタントとかさ。方法はいくらでもあるだろ?」
「セージが作ってくれた方が美味しいも〜〜〜ん。美容にもい〜〜〜も〜〜〜ん。はーやーくーぅ」
貴女は子供ですか。と思わず言いたくなり、なんとか答えた。
当たり障りの無い朝食を作り終えてハル姉の元へ。俺に朝食を取る習慣はないので、彼女の分だけだ。
「それじゃ行ってくるよ」
ほとんど中身の無い鞄を背負って、玄関へと向かう。背中から行ってらっしゃいと声が掛かった。
―――――と
突然に足元がふらつき、転んでしまった。膝から床に入り、派手に音が響く。
一般に弁慶の泣き所とか言われるスポットに、もろに玄関の角にぶつかったらしい。
「大丈夫!?」
口をパクパクさせながら膝をさする。冗談にも痛くないとは言えなかった。
「痛いの痛いの、とんでけー」
「…………」
ハル姉が俺の膝を触り、それから万歳するように手を上げる。ここはツッコムところだろうか。
痛みはまだ残っていたものの、彼女の手を振り解いてなんとか立ち上がった。
「…行ってきます」
彼女にそう答えて、家を出る。後ろから何か言われたが、無視することにした。
実はここ最近、こういう事が頻繁にあったりした。
大事になったことが無いので誰にも言った事はないが……ハル姉に相談した方が良いのだろうか。
多数の名立たる音楽家を育成してきた名門校がある。
俺が行っているのは正にそこの学院で。ついでにハル姉もそこの出身だったりする。
音楽だけでなく学力も高いソコは、俺だったらどうやっても手の届かないところだっただろう。
いわゆるハルカ姉さんのコネで入学することが出来たのだが、案の定勉強にはまったく付いていけない。
彼女が音楽だけ出来れば勉強は出来なくても良いよ、と言っているのが救いだろうか。
…教育的に、間違っているような気もするけどな。
「セイジ」
背中から声が掛かったので振り返ってみると。友人、と呼べるかどうか微妙な相手が立っていた。
元ピアノ科、現普通科所属のハヤトである。
「珍しいな、お前がこんな時間にいるなんて。
…あぁ、ハルカ姉さんが戻ってきてるのか」
答える前に、彼は納得したように頷いた。質問してから勝手に答えを出す、彼の癖である。
彼が言う"戻ってきてる"というのは、ハル姉がよく海外へと仕事に行っている事を指しているんだろう。
確かに、一年の1/3近くも家を空けている事がたまにある。
「いーいよな、あんな美人の人と同棲生活なんてさ」
数回しか顔を合わせた事が無いくせに、ハヤトは随分前からハル姉に熱を上げているらしかった。
「変わってやろうか?一晩3万で良いぞ」
「・・・おい、それは本当だろうな」
いや、本気で考えられても。大体ハル姉が駄目って言うだろうしな。
ピアノ科は基本的に、二人一組で練習していくことになっている。
親睦を深めようだの、技術を競い合って行こうだの、理由は色々ある。でも一番は経済的なものだろう。
ピアノの値段は、最低でも50万はする。最低であり、最高ではない。
ここの学園には中古で買うという考えは無いらしく、すべて新品である。
加えて大多数が公演のためのグランド・ピアノなのだ。つまり、尚高いのである。
アップライト・ピアノもあることにはあるのだが、これはピアノ科用では無い上に、数が少ない。
生徒一人一人にピアノを振り分ける程の余裕はないのである。そういう意味で、ピアノ科は二人一組だ。
ハヤトがピアノ科だった頃、組んでいた相手が俺。そういった経緯から今に関係になっているわけである。
その彼が、腕時計を確認して顔をしかめた。
「ん、時間やばいな。走っても良いか?
・・・悪いな」
「・・・ご自由に。俺はゆっくり歩いてるさ」
遅刻の常習犯な俺にとって、走るという概念はない。今日はこれでも、早い方だろう。
家に戻ると、僅かにピアノの音が響いていた。
あの人は本当に・・・。
音楽以外に、やることがないのだろうか。苦笑しながら部屋に入ると、一杯に音が流れ込んでくる。
曲は確か、ブラームスの『ハンマークラヴィア・ソナタ』。ブラームスがベートーヴェンを模範した曲だ。
メジャーとは言い難いが、それなりに有名なものである。
すぐに答えに辿りついたということは、こうした音楽知識も少しは身に付いてきたということだろうか。
単純に嬉しくも思ったが、血の滲むような授業内容を思いだしかけ、その考えを止める。
部屋に入ると、ハル姉の眼が一瞬だけ俺の姿を捉えながら、指はそのままに鍵盤を滑っていく。
さすがに人前で弾く事に慣れているらしい。緊張も迷いもまったく感じられなかった。
設けてある椅子に座って、眼を閉じて彼女の音を聴いていく。文句の付けようがない美しい旋律だ。
それに、音だけじゃない。純粋にハル姉は、音を奏でる事を楽しんでいた。
その事が表情に、仕草に、身体全体から見て取れる。長年共にいた俺でなくても、一目でその事がわかるだろう。
本当に、どれだけ努力すればこの音に近付く事が出来るのか、正直言って検討がつかない。
小さい頃からずっと。そして今の今まで、ハル姉は俺の目標だった。
―――――ゴン
世界が傾いたと感じたのと同時、自分の頭が床に当たったのがわかった。
思考が追いついたのは、痛みを覚えてから少し経ってからで。ハル姉が叫んだ直後だった。
「セージ!?」
・・・は・・・…?
手を付いて起き上がろうとする。が、体重を支えきれずにまた倒れた。
上手く力が入らないどころか、手が凄い勢いで震えている。自分の身体ながら、見ていて気持ち悪い。
これは、なんだろうか。
「どうしたの!? セイジ!」
駆け寄ってきたハル姉に、しかし満足のいく解答は返せない。
痛みが無いのだけは良かったと思う。有ったのなら、発狂して叫んでいたのかもしれなかった。
ハル姉に引っ張られて立ち上がったものの、またすぐに倒れそうになる。手も足も、上手く動いてくれない。
「大丈夫・・・だって。何処も痛くないし、すぐ・・・治る・・・きっと」
ハル姉と、そして自分にそうやって言い聞かせる。彼女を安心させるために笑顔も作った。
そう言った直後、また足が震えて床に倒れ込んだ。
病院で告げられたのは、脊髄小脳変性症という病名だった。
難病とされる一つで、完治する療法は存在しないらしい。発症の原因も、詳しくはわかっていない。
症状は多々あるらしく、俺の場合は『四肢失調』。要するに手足が思い通りに動かせなくなるらしい。
音楽家としては、死んでしまったのと同じ事である。
家に戻ってからも居間ではずっとハル姉は泣いていたし、俺も暗く沈んだままだった。
もうまともにピアノを弾ける事も無いだろう。
学園には通えなくなるのか、それともハヤトのように普通科に編入することになるのだろうか。
学力で付いていけないのに、どうすればいいのか。・・・そもそも、ピアノの無い人生なんて考えられない。
今までもこれからも、ずっとピアノを弾いていこうと確信していたのに。
俺の人生は、こんなにも脆いものだったんだろうか。
「ごめんね・・・」
ハル姉は涙を流しながら、何度も何度も俺に謝罪の言葉を言っていた。
俺にピアノを教えなければこんな事にはならなかった、と自分を責めていたのがわかった。
確かにその可能性もある。
ハル姉がいなければ至極平凡な日々を送り続け、ピアノに触れる事も無かっただろう。
毎日の様に両手を酷使しなかったのなら、もしかしたら病気もこんなに早く発病しなかったのかもしれない。
でも彼女を恨む気なんて俺にはまったく無い。そして多分、後悔の想いも無かった。
「・・・私がいなければ、セイジはこんな事にはならなかったのに・・・・・・。
お父さんともめる事も無くて、幸せに暮らせたのに・・・・・・ごめんね・・・」
ただひたすらに、何度も俺に頭を下げ続ける。
「ハル姉が謝る必要なんてない。俺が勝手にやって、その結果が出ただけだよ」
「でも! ・・・でも、セイジは何も悪くない・・・・・・。
私、がいなければ・・・・・・・・・」
いくら優しい言葉を掛けた所で、彼女は受け入れてくれないだろう。それくらい自分を責め続けている。
どうやればハル姉に伝わるかを考えたら、答えは一つしか思い浮かばなかった。
結局後にも先にも、俺にはこれしかないのかもしれない。そう思ったら、自然と笑みが出た。
「ハル姉、俺の演奏を聴いてくれる? 一曲だけで良いから」
「え・・・?」
戸惑いながらも肩を貸してくれて、なんとかピアノの前に座る事が出来た。彼女が向かい合うように座る。
軽く息を吸い込んでピアノに向かい合うと、不思議と心が落ち着いていくのがわかった。
やっぱり俺には、これしかないのだと思う。
弾いたのは、二人の思い出の曲。
初めてハルカ姉さんが作った本当に簡単な曲で楽譜もない。昔はよく聴かせてもらっていた曲だ。
弾き始めた直後から、指の違和感をはっきりと感じる。何度も躓いては音がズレていった。
自分でも変だと思うのだから、彼女にはもっとはっきりした違和感があるはずだ。
ただそれでも、構わなかった。
上手いか下手かで問われたら、勿論上手い方が良いに決まってる。常識的にそうだし、俺もそう思う。
ただこの曲を弾いている時だけは・・・・・・下手くそなままで構わないと、いつも思っていた。
初めてピアノを弾いた時の気持ちが、戻ってくるような気がするから。
ただ単純に、音が出るのが楽しくて嬉しくて。なによりいつも隣りにいる彼女が笑ってくれていた。
それだけで、俺には充分だった。それだけが、俺の全てだった。
ピアノを弾いている時は、いつだって楽しい。それは指が上手く動かない今でも同じに感じている。
これからは上手く弾けないのかもしれないけれど・・・・・・それでも、ピアノを捨てる気にはなれなかった。
こんな気持ちにしてくれたのは、間違い無くハルカ姉さんのおかげで。
本当に、一生かけても感謝しきれないくらいに感謝している。
だから どうか。 この想いが 彼女へと届きますように・・・
想いを込めて、鍵盤を叩いていく。優しく激しく、強く弱く。そして出来るだけ、感情を載せて。
今の俺が出せる、精一杯の音を 彼女へと向けて弾いていった。
「・・・セイジ」
演奏を終えると、彼女は真っ直ぐに俺を見つめていた。眼から頬へ、涙が一筋流れていくのが見える。
俺の想いは、届いたのだろうか。
「ピアノ・・・、好きなの?」
「・・・うん」
「指が上手く動かなくても?」
「うん」
「これから・・・辛いかもしれないよ?」
「わかってる」
「それでも・・・・・・続けるの・・・?」
「そのつもりだよ。前から決めてた事だしな」
「・・・・・・セージ・・・」
彼女はまた涙を流して俺へと抱き付いてきた。さっきの俺より、ハル姉の方がよっぽど震えている。
「俺はハル姉に感謝してるよ。本当に感謝してる。だから自分の事を責めるのは・・・止めてくれないかな。
もし出来るなら、俺に音楽の道を薦めた事を誇りに思って欲しい」
「・・・」
「駄目かな」
ハル姉は首を振って、今度は俺の頭を撫で始めた。やっぱり彼女には、笑顔の方が似合っていると思う。
「・・・ありがとう、そう言ってくれて・・・・・・。
セイジがそう言うなら・・・これからも付き合ってあげる。後悔しないでね?」
「ああ。こちらこそよろしく」
俺の病気は、恐らくこれからずっと付いて回るものだと思う。
その事実は変わらない事だし、素直に受け入れるしかない。それはもう、しょうがない事だ。
でもそれがピアノを止める理由にはならないし、ハル姉の悲しむ原因にもならない。
これから辛い事は沢山あるかも知れないけれど・・・・・・それでも俺は、ピアノを弾き続けるだろう。
大切な人を隣りに、自分だけの音を探して・・・
-あとがき-
随分と久々になりました。お久しぶりです、Yukiです。
最早あとがきとか何を書いて良いのか悩みます・・・・・・いつも通りだけれど・・・。
ここまで読んでくれた方はわかるかと思いますが、「ピアノ協奏曲」は一話完結のお話ではありません。
全部で4話の予定です(もしかしたら5話)
ハヤトとか、出てきたのにまったく意味を成してないキャラですしね。ちなみに2話は彼がメインのお話だったり。
一話のテーマは、「言葉を超える音楽」ですよっ
さて、今回は私の中で曲のイメージというものがあります。ただ文章を書いてるだけじゃないよ!じゃないよ!
で、最後の方でユウキがハルカ姉さんに弾いた曲のイメージがこちら。
かなり昔にどこかのサイト様が配布していた音楽で、残念ながらそこは閉鎖されてしまったのですが、今回使わせて頂こうと思います。
問題がある場合はメールで文句なりお願いします…。
ではでは、次の物語でお待ちしております
Yuki.