小さい頃からの夢は、あっけなく現実にねじ伏せられてしまった。頭で理解したものの、すぐには受け入れられない。
ただ、いくら喚き叫んだところで無駄だということもわかっていて、結局は何も言う事が出来ないでいた。
その時点でもう、認めてしまっていたんだろう。
もう、ここまでだと。

ただ、そう簡単に諦める事も出来ないのもまた事実で、醜くも縋り付いている自分がいる。
そんな姿を想像して、嫌気がさした。
もう良いじゃないか、充分努力はしたさ。無駄な事だったとはいえ、それなりには楽しかった。
だからもう、止めてしまおう。

そう 思っていた









「ふう・・・」
演奏を終え、一息付く。シズクがぼーっとした様子でこっちを見ていた。
悪くはない。ただ、特別良いというわけでもない。
「・・・あの、先輩」
反省をしていると、彼女から控えめに声が掛かる。
「・・・良かったと思います」
「ありがと」
シズクはハル姉と違って、良い感想しか述べない。それが困る事もあるし、励まされる事もあった。
残念ながら今回は、前者だった。

また、あの夢の内容を思い出していた。
左手には何か暖かい物があって、右手には何も無い。夢は夢、現実とは違う。
けれどやはりずっと、気にはなっていた。左手にあるものは何なのか。そしてどうして右手にはないのか。
考えてもわかるはずが無いのに、そればかりが頭を過ぎていた。
「先輩・・・?」
深く考え込んでしまったらしく、気が付けばシズクが心配そうに覗き込んでいた。
「いや、なんでもない」
「そうですか・・・・・・」
そう答えたシズクは、何故か残念そうにしていた。ひょっとしたら、俺の悩みを聞けるかと期待していたのだろうか。
シズクに限ってそれはないな、と思い直して首を振る。
今の俺の相方である彼女、シズク。身長が140cmくらいしかない、ミニマムな少女である。
俺の事を『先輩』と呼ぶのは、俺が5年生で彼女が3年生だからだ。
ちょっと、というかかなり、というか重度の人見知りな性格で、知らない人に話しかけられると怯えてしまう。
なんとなく、小動物なイメージが付いてしまっていた。
「あの、私で良ければ、ですけど・・・」
「・・・・・・?」
数秒経っても何も言わない彼女に眼を向けると、丁度視線がぶつかった。何故か真っ赤になったシズクが、急いで言葉を続ける。
「その、えと、悩みとかって人に話すと楽になることもあるので、だからその、私で良ければ・・・」
それきり、まるで怒られた様に彼女は俯いてしまった。予想外の言葉に、こちらとしても何も言えなくなる。

コンコン。

だからその時に誰かが練習室の扉を叩いたのは、正直にいうとありがたいと感じてしまった。
彼女の顔もホッとしているように見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。
「ん、誰だろう」
練習室は基本的に、朝から早く来た人達によって順々に埋まっていく。そして完全防音の上に、中を覗く事が出来ない。
だから外のプレートで人がいるかどうかということ以外、誰が中にいるかまではわからない。
ここは一番奥の部屋で、他の部屋よりも広く人気がある。だから逆に、人が来る事もほとんどなかった。
よほどの急用なのか、それとも単にこの部屋に忘れ物でもした人がいたのだろうか。
扉を開けてみると、意外な人物が立っていたので、驚いた。
「・・・まさか一番奥にいるとはな・・・・・・。よう」
ハヤトである。
この様子からすると・・・・・・全ての部屋を確認しながらここまで来たのだろうか。
「よっ。どうした、こんなところまで?」
「ちょっと、暇になってな・・・・・・。入っても良いか?
 さんきゅー」
振り返り、シズクの方を見る。彼女に意見を聞こうと思ったのだが・・・・・・あれ、どこにいった?
彼女は俺のすぐ近く、というか後ろにいた。怯えた眼でハヤトを見つつ、俺の腕の裾を掴んでいる。
「・・・ん、その子は?」
「今の俺のパートナー。・・・ちょっと、人見知りなんだ」
ハヤトは納得した様に頷きながら、まるで観察するように彼女を視姦していく。シズクは更に、俺の身体に隠れていった。
「なるほどな。悪いけどお邪魔するぞお嬢ちゃん」
誰にも許可を得てないくせに、彼は堂々と部屋の中に侵入すると、真っ先にピアノまで向かっていった。
「・・・・・・・・・あの、先輩・・・?」
「ん?あぁ、あいつは・・・・・・前に俺と組んでた奴。
 心配しなくても大丈夫、か・・・?」
「当たり前だ。俺は年上にしか興味がない」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
俺とシズクの微妙な視線を無視しているのか気付いていないのか、彼はピアノの鍵盤にゆっくりと指をかけた。
ぽろん、と小さな音が鳴る。しかしそれだけでハヤトは、顔をしかめた。
鍵盤には指を乗せたまま、しかしそれ以上の音は一つも聞こえてこない。なんとなく、話しづらい雰囲気だ。
「・・・で、結局お前は何しに来たんだよ」
「暇潰しだ。・・・そんな顔をするな、別にお前等の邪魔をしにきたわけじゃない」
今まさに邪魔をしているだろう。
その言葉を飲み込んで、シズクに眼を向ける。
「って言ってるんだけど、どうする?摘み出すか?」
「・・・・・・私は・・・平気です・・・・・・・・・」
歓迎している様子はなかったが、彼女ならそう答えてくれるのはなんとなく予想が出来ていた。
「だそうだ。邪魔になるなら摘み出すからな」
ハヤトは頷き、椅子を引っ張り出してきてその上に収まった。視線は俺達の方に向いている。
彼は無言で、早く弾けと言っているようだった。


3年生であるシズクには、もうすぐ進級試験でもある発表会がある。そこで一定以上の技術を発揮すれば、晴れて進級だ。
もちろん成績もそれで決定するので、かなり重要な試験だと言える。
しかも学院の特色なのか、その試験は自分で作曲した曲でなければいけないという決まりがある。
演奏の技術だけでなく作曲のセンスも問われる、難しい教育方法なのだ。
俺にも同じ試験があるのだが、学年毎に時期が違い、シズクよりはまだ少し余裕がある。
つまり今は、自分よりも彼女の作曲を手伝う時期だと言えた。
「・・・・・・ど、どうですか・・・?」
まだまだ未完成の曲を終えた彼女が、まるで俺の機嫌を窺うような眼を向けてくる。
・・・ああ、ハムスターの視線ってこんな感じだろうか。
「正直言うと、あんまり良くないな」
本当はあんまり、ではなく良くなかった。間違いも多々あり、彼女自身もわかっているだろう。
彼女の技術は、それほど低くない。むしろ、同学年と比べると高い方だと言えるだろう。
問題は、その性格にある。彼女は自分がピアノを弾く時に誰かが側にいると、平常心を失うらしい。
一度シズクが一人で弾いてるところを彼女に気付かれずに聴いていたが、その時は本当に素晴らしかった。
付き合いのある俺がいてもそうなのだから、初対面のハヤトがいる現在は、もっと酷い。
そういう意味で、彼が邪魔していると言えなくもないのだが・・・・・・。
曲を作る以前に、技術を鍛える以前に、そちらをどうにかして改善する必要があるだろう。
本番では、今とは比べ物にならない人数の前で演奏をしなければならないのだから。
「・・・すみません・・・・・・」
泣きそうな顔で彼女が俯く。なんとなく、その頭を撫でてしまった。
「いや、気にしないで良い。まだ時間はあるからな」
ハヤトの視線が痛かったが、今回は無視することにする。彼女も冷静になったのか、真っ赤な顔で俺から離れた。





その日の練習が終わった直後、何を考えているのか、ハヤトが俺の肩に腕を回してきた。
「今日お前ん家、行っていいか?
 さすがっ親友!」
その勝手に答える癖、治した方が良いと思うぞ・・・。
特に断る理由も無かったので、頷いておく。ハヤトが家にくるなど、もう半年振りくらいだろうか。
「あ、でも今ハル姉はいないぞ? しばらく帰ってこないらしい」
「・・・は? お前それ、俺が行く意味がほとんどなくなるじゃねえか・・・・・・」
やっぱり、ハル姉目当てだったんだな・・・。そのわかりやすい性格は、ある意味では羨ましいとも言える。
それじゃあ来ないかと訊くと、彼は少し悩んで後に行くと答えた。
家に戻った途端、ハル姉の部屋に侵入しようとするハヤトを止める。
荒らされて怒られるのは俺だし、何よりこいつをハル姉の部屋に入れるのは、なぜか嫌だった。
一応客なのでお茶なんかを用意していると、不意に彼がいない事に気付いた。
探してみると、ピアノの置いてある部屋に彼が突っ立っていた。何をしているわけでもなく、ピアノを見下ろしている。
そういえば、昼間に彼が練習室に来た時も様子が変だった。何か思うことがあるのだろうか。

ハヤトがピアノ科から普通科へ移ったのは、もう一年近く前になる。
決して彼がそうなるように望んだわけではなく、経済的な理由からだと聞いていた。
ハヤトは三兄弟の次男であるらしい。教育費がかなり限られていると、彼から聞いたことがある。
学院には、奨学金という制度はなかった。理由はわからないが、弱者を振り落とすためだと俺は思っている。
音楽家というのは、基本的に金のかかる職業だ。
学院の設備費や教育費も払えない人間が、世間に出て音楽一つで生きていく・・・・・・。子供でもわかるくらいに、不可能な話だ。
俺の場合には、ハル姉がいた。特別講師として学院側からも誇れる逸材の、その愛弟子・・・。
そんな言われも有ってか、俺は金の問題には一切困った事がない。シズクも一人娘で、両親がなんとかしているらしい。
その点で、ハヤトはピアノ科を続けられなかった。同情する事も出来ない程の現実が、俺と彼の間にはある。
「・・・弾かないのか?」
俺の言葉に、ハヤトの肩が一瞬 震えたように見えた。彼はピアノを見下ろしたまま、ゆっくりと首を振る。
「いや・・・。俺はもう、その資格は無いからな」
「資格、ってお前な・・・・・・」
「それより、弾いてくれないか。簡単なやつでいい」
彼の表情は、懇願しているようにも見えた。何か、必死になる事があるのだろうか。
薦められるまま、ピアノの前に座り一息付く。ハヤトに聴かせるために弾く、なんて本当に久しぶりだろう。
俺が脊髄小脳変性症になってから、リハビリの日々は今も続いている。今ではそれなりに動けるようになった。
ただ、まだ早くは走れないし、素早くピアノを弾くなんてことは不可能だ。やりすぎると、手足が痙攣する。
それはハヤトもシズクも、もちろんハル姉だって知っている。そんな状況の上で、彼は俺に要求しているということだ。
「・・・本当に簡単なのしか無理だぞ?」
「わかってる。無茶はしなくて良い」
わかった、と頷きながら、鍵盤に指をかけた。

彼は、自分にはピアノを弾く資格が無いと言っていた。
弾く資格なんてものは、何処にも存在しないし、聞いたこともない。彼の心が決めたものだろう。
ピアノ科を抜けてしまった事で、もう自分にはピアノに関わってはいけないと思いこんでいるのだろうか。
仮にそうだとして、俺は正しいとも間違っているともハヤトに言う事は出来ない。
音は、楽しむものだから。
昔からハル姉が口癖のように言っていた言葉がある。だから俺は、そうとしか考えられなかった。
もしピアノ科を追放されたとしても、恐らく俺はピアノを捨てる事はしないだろう。
生活の一部、習慣と言っても良い。けどそれだけでなく、やはりピアノを弾くのは楽しかった。
手が上手く動けなくなっても、それだけは変わらないままだ。
いつしか音を紡ぐ度に、ハヤトの事も頭の底に沈んでいく。眼に楽譜を、指に鍵盤を、耳に旋律を。
音楽の世界で、それ以外のものはまるで見えなくなる様な感覚。自然と心が安らぎ、ついつい笑みが零れそうになる。
音は楽しむもの。そして、人々の心を伝えるもの。
相変わらずに指は思い通りには動かなくて、テンポの早い曲は必ずと言っていい程に失敗する。
それでも、やれるだけ弾き続けた。ピアノの音が、自分に、彼に、彼女に、人々に届くように。
音に生る。その時確かに、自分が音に生っているのを感じた。
「・・・相変わらずだな」
ハヤトはそれだけ言って、少し寂しそうに笑みを浮かべる。尊敬と嫉妬が入り交じったような表情だった。
それには応えず席を立って彼に譲ると、やはり彼は首を振った。
「俺はやっぱり・・・・・・弾けない」
「どうして?」
俺の真っ直ぐな言葉に、ハヤトは戸惑うような表情を浮かべていた。
「それは・・・・・・。俺はもうピアノ科でもないし、弾いたって意味がないだろ?
 向上心も無しで、弾かれるコイツが可哀想だ」
コイツ、と言ってピアノを指す。
彼にとって、いや音楽家にとって、これはもうただの楽器ではないんだろう。
ハヤトの言葉に、思わず溜息が漏れてしまったのがわかった。
「・・・初めてピアノを弾いた時ってさ、なんか楽しかったよな。
 全然弾けないくせに、音が出る。っていうのが、単純に嬉しくてさ」
勿論、俺はハヤトが初めてピアノを弾いた時の事なんて知らない。
でもきっと、みんながみんな、初めは同じ気持ちだったんじゃないだろうか。
「こいつは・・・・・・俺やお前に弾かれて、どう思ってるんだろうな。
 笑ってくれてりゃいいんだけど・・・」
指を軽く押すと、ポロンと小さな音が鳴った。ピアノが笑っているのか叫んでいるのか、なんとなく分かる気がする。
「・・・俺は、弾いても良いのか?」
その言葉は、最近にも聞いていたものだったので、思わず笑ってしまいそうになった。
俺も、ハヤトも、彼女も。結局は同じ様な事を一度は悩むらしい。
「それを決めるのは、お前自身だぜ」
笑って彼に席を譲ると、今度は恐る恐るといった感じでピアノの前に座った。俺とピアノを、交互に見ている。
やがてハヤトは小さく頷くと、ゆっくり鍵盤へと指を掛けた。


「―――――なぁ」
長い間、思うままに弾いていたハヤトが、不意に顔を上げて俺を見上げる。
「俺の家にピアノ無いの、知ってるよな?
 だからちょっと、頼みがあるんだけど。」
嫌な予感がするので、出来れば断りたいのだが…。どうもそういう雰囲気ではないようだ。
「たまに…で良いんだけど、弾きに来てもいいか?」
「……まぁ、それくらいなら別に良いと思うぞ」
ハル姉なら、たぶん駄目だとは言わないはずだ。やはり、彼にとってもピアノは捨てられない存在なんだろう。
「もちろんハルカさん目当てでな」
「今すぐ帰れ。そして二度と来るな」
ハヤトは冗談だと笑い、部屋を移動してソファーに身を投げた。何故か、天井を見上げている。
「どした?」
「ん、いや………。やっぱり俺も、ピアノが好きだったんだな、って それだけだよ」
そう言って笑う彼は、本当に楽しそうにしていた。何かをふっきった、といった感じだろうか。
「…こうなったのも、お前のせいだからな」
「はぁ……?」
「いや、なんでもない」
今日のハヤトは本当に意味不明だ。自分一人で勝手に納得している節がある。
それでも良いか、と思う俺の性格もよくないのだろうか…。
「腹減ってきたな。なんか作ってくれね?
 サンキューなっ!」
「……ほんと良い性格してるな、お前は…」
そうして久々に、その日は彼と過ごして一日が終わった。


ユウの家から戻る、その道の途中。自分でも気まぐれを起こすことがあるんだなと驚きつつ、浜辺へと足を踏み入れる。
「…………」
小さな波が足元まで伸び、そしてまた戻っていく。夕刻に見る海は、普段見慣れているものとはまた違った物に感じた。
周りには誰もいなかったし、漁をしている人もいない。世界にたった一人で残されたような、無音の空間。
その中で。頭の中では、絶えず鍵盤の音が流れ続けている。
「音を楽しむ、か……」
ユウの言葉にも音にも、嘘は一つも存在しない。それが彼の音を聴いていて、なんとなくわかった。
久々に弾いていて、いくつかわかった事がある。
一つは、俺は本当にピアノが好きなんだということ。
一つは、夢のカタチは決して一つではないということ。
今自分の中にある考えは、きっと正しいことではないだろう。それくらい、自分にでもわかる。
それでも諦められないものがあるから。馬鹿な自分は、それをしてしまう。
世間や家族は、笑うかもしれない。せっかく普通科で出来た友人達にも、馬鹿にされるかもしれない。
それでも恐らく、ユウやハルカさんは真剣に聴いてくれるに違いない。
そういった人間がいるから、きっと俺は諦め切れないんだろう。
「……そんじゃ、いっちょやりますかっ」
清清しい気分のまま立ち上がり、思わず声を上げる。久々に吹っ切れた気分だった。
夢は一つ。『ピアノを通して、人を笑顔にすること』 餓鬼の頃から、思い続けていたことだ。
今の俺にはそれしか無かったが、それだけはあった。ならそれで、充分じゃないだろうか。

ふとハヤトが空を見上げると、夕日が丁度落ちていくところだった。
それは陽の終わりであって、月の始まりでもある。彼にとっては、始まりだろうか。
綺麗だな、とハヤトは小さく呟いた。












-あとがき- なんだか毎回言っているような気がしますが、随分と更新が遅くなってしまってすみません。 やっと暇が出来ました・・・・・・とは言えない絶望的な状況で、また遅れる事があるかと思います・・・すみません(´・ω・`) このお話は一応、7月の中盤にはほとんど完成していたのですが、色々と気に入らない所があったので修正しました。 その後放置されたり・・・・・・不運な物語ですな(´-ω-`) この2話のテーマは、なんと! ・・・特にありません! ―――――駄目だアッー! というか、1話目からずっと同じテーマかと思います。うん、そうだきっとそうだ。 例によって、今回ハヤトが弾いた曲のイメージはこちら そいではっ、次のお話で会いましょう! Yuki.